No.129
その先にあるもの
2002.9.30
昨日のTBS系「情熱大陸」で取り上げられた「岡野雅行氏」。
自分の仕事に対する、凄まじいまでのプライドを感じざるを得ない。
番組内で、中小企業の「懇話会」に呼ばれた氏が、「値下げに対してどう対応していますか」と質問されていた。
それについて、「一流企業だろうと強気に出ればいいんだ」みたいなことを言っていたけど、あれは自分の「腕」(=技術)に対する自信があってこそ。
発注元だって、世界中探したって、「彼しかできない仕事」なのだから、よほど法外な価格でなければ、彼の言い値でやらざるを得ない。
彼のコア・コンピタンスについて、色々な言い方ができるのだろうけど、私は「絶対にやってくれるという事実」ではないかと思う。
「腕の確かさ」とか、「生産ラインまで仕上げてくれる」とか、視点によって、彼のコンピタンスも変わってくるのだろう。
ただ、世の中には、彼と同じくらいの「腕」を持った人はいるはずだ。
ミクロン単位で旋盤を扱える人も、最近では、テレビでもしばしば取り上げられる。
「生産ラインまで仕上げてくれる会社」だってあるだろう。
でも、彼の「絶対にやり遂げるという執念」は、そう簡単に真似できない。
そう、「こだわり」というレベルの先にある「執念」。
「心技体」でいえば、「体」は当然として、「技」も意外と簡単に真似されやすい。
最近では、「ビジネスモデル」などというもので、自分の技術の拙さを法律的に補おうとする会社も多いようだけれど、法律なんて所詮人間の作るもの。
政治家や官僚の思惑一つで、割と簡単に改正できてしまう。
そんなものに頼らなくては守りきれない技術とは、所詮そんなものなのだろう。
ただ、人の「心」までは、そう簡単に真似ることはできない。
岡野氏が、「弟子は取らない」といっていたけど、それはもしかしたら、自分の「心(=執念)」を理解できる人間ではないと判断されたからなのではと思う。
そしてつまるところ、「俺の心を理解できるやつなどいるわけない」ということなのか。
修学旅行で来た中学生には、自慢げに自分の技術を見せていたところをみると、「弟子を取るのが嫌い」なわけではなさそうだった。
休暇で訪問していたベトナムで、ふらっと訪れた金属加工工場で、若い人がいきいきと働くのを見る眼差しは、とても優しそうに見えた。
そう考えると、やはり、弟子入りを志願してきた人が、かなりの役不足だったのだろう。
彼がいなくなったら、どうなるのだろう。
日本の技術というよりも、今や世界の技術の一翼を確実に担っている人材がいなくなったら、大変な損失であることには間違いない。
彼に発注している企業は、その「保険」をどのように考えているのか。
世界の技術の根幹は、実はかなり脆弱な課題を包含していることを、図らずも露呈した番組だった。
1.原 点
その岡野氏がベトナムの市場で、鉄くずで作られた「おもちゃ」を買っていた。
水道管や普通の針金から、「怪獣」(?)や「宇宙人」(?)を楽しそうに眺めては、買っていった。
NASAの技術をも支える人が、なぜベトナムの、しかも、「たかが鉄くず」で作られたおもちゃに興味を示すのか。
彼の真意は、もちろん知り得ないため、ここからは私の推測にすぎない。
おそらく、彼の「執念」が巡り巡って、「原点」に立ち返ったのではないかと思う。
今をときめく携帯電話の金型を作る技術だって、元をたどっていけば、金属を叩いたり、ねじまげたりすることで、形が変わっていくことを、心の底から「おもしろい」と思った気持ちから始まったはずである。
いや、そう思ったのは、何も彼、岡野氏だけではないだろう。
そのような純粋な気持ちがなければ、金属加工という職業は生まれなかったはず。
単に「儲かるから」などという理由だけで、世の中にこれだけ町工場ができるはずがない。
ただそれが、「ハイテク」とか「超○○技術」などという聞こえのよい言葉に惑わされると、ものを考える視点が、いつの間にか一方向になってしまう。
誰でも「格好いい仕事」はしたいものだ。
友人に声高に自慢できる仕事の方が、格好いいと思うことは、やむを得ないだろう。
でも、そのことばかりに執心してしまうと、いつか方向性を見誤ってしまう。
彼は、「自分の原点」を、ベトナムの市場に探していたような気がする。
ともすれば曇ってしまいがちな自分の目を、もう一度確かな方向に向けるために、鉄くずのおもちゃを買ったのではないか。
最近、音楽業界でも、昔の曲のカバーが大流行している。
平井堅の「大きな古時計」は、いくら何でも遡り過ぎという感じがしないでもないが、大物歌手が、過去の曲をセルフカバーするのは、やはり「迷走気味」の自分の「原点」に立ち返ろうとしているからなのではないか。
歌手個人だけでなくとも、音楽業界全体が、コムロ以来の最先端の楽曲を求めすぎた結果、60年代や70年代のヒット曲に行き着いてしまった感がある。
今、CMでやたらと昔の曲が使われるのは、「そういう世代の人たち」が、自分の若かりし頃の曲を懐かしがって、使っているのではなく、「先が見通せないところまで来てしまった」ことにふと気づいて、原点に返らざるを得なかったというべきではないか。
1つのジャンルを追求すればするほど、自分の原点から遠ざかっていくものである。
だから、時々振り返ることが必要だし、それを忘れると、いつか必ず行き詰まる。
自分の「原点」がどこにあるのか、何であるのかを、しっかりと認識しておくことが重要なのだろう。
2.ビジネスの基本3科目
ただ、いくら原点に返ったところで、必要な能力を持っていない者は、そもそも生き残れない。
現代のビジネスに必要な能力とは何なのだろうか。
単純に言うと、3つしかないと思う。
1つは、「文章力」である。
最近の流儀でいえば、自分の考えていることを「テキストベース」で表現できる能力。
いくらいいアイディアを思いつこうと、それを「文章」として表現できなければ、人に伝えられない。
そして、文章に表現するということは、そのことを論理的に理解できていないと不可能なのである。
長嶋茂雄のように、「腰をググッと回して、ブワァっと打つ」という表現では、せっかくの優れた打撃理論も、誰に理解してもらうことはできない。
2つ目は、「表現力」。
これは「論理的な考え方」を、ビジュアルで表現する能力のことである。
文章だけで、人に納得してもらうことは難しい。
特に、時間のない人にプレゼンテーションをするのに、今時くどくど文章で書いて持っていっても、誰も相手にしてくれない。
だから、自分のアイディアを、「一目で分かってもらう表現力」が大切なのである。
3つ目は、「計算力」とでも言うべきか。
分かりやすく言えば、「数学」をどれだけ理解しているかということ。
自分の「論理」の確かな裏付けとなるのが、「データ」である。
どこからか引っ張ってきた、怪しげなデータを適当に載せておけば、少しは誤魔化せるかもしれないが、いつかは馬脚を現す。
データの根拠を数学的に理解できていないと、納得のいく説明にはならない。
これらの能力を3つとも必要としない仕事は、おそらくないと思っている。
もちろん、職種によって、それぞれのバランスは異なるだろう。
例えば、「経理」の仕事であれば、当然のことながら「計算力」が最重要だろうが、今は「帳簿」の意味を上司に、きちんと説明できる人間でなければ、必要とされない。
工場で、部品を組み立てている人だって、これからは自分で編み出した技術を、後輩に伝えていかなくてはならない。
「暗黙知を形式知化する」ためには、「表現力」か、「文章力」が伴わないと、役目は務まらない。
この「文章力」「表現力」「計算力」。
学校で習った科目で言えば、それぞれ「国語」「美術(図工)」「数学」である。
「国語」には、最近は「英語(外国語)」という意味合いも含まれてきたのかもしれない。
いずれにしても、学校で習う、この基礎科目がいかに大切かということである。
そして、もう一つ。
この3科目を、パソコンソフトに当てはめてみると、「Word」「Power Point」「Excel」となる(Microsoftでは)。
つまり、この3つのソフトを自由に使いこなせないと、これからのビジネス社会で生き延びていくには、相当辛いということ。
最近、「図で考える人は仕事ができる」という本が出版されているようだが、「図でしか考えられない人は仕事ができない」ともいえる。
要は、3つの「科目」のバランスを取るということが重要なのである。
3.そしてその先にあるもの
ビジネスに必要な能力も持っていて、仕事に「こだわり」も「誇り」を持っていても、それでも結果に差がつく場合があると思う。
短期的には、似たような結果でも、ロングセラーとなるのか、短命で終わってしまうのか、その違いはどこにあるのだろう。
私の考えは、「言葉」としては、ここでは明らかにしないでおきたい。
是非とも、個々人で考えていただきたい。
ただ、そのアイディアとなるものは、ここにいくつか呈示しておく。
手塚治虫の「ヒョウタンツギ」。
手塚作品のジャンルを問わずに、突然出てくる「あれ」である。
ツギハギだらけのヒョウタン(?)。
シリアスな場面でも、突然登場したりする。
睡眠時間も、ほとんど取れなかったという手塚治虫は、あの「ヒョウタンツギ」にどのような意味を持たせようとしたのか。
ビートルズの「Her Majesty」。
ビートルズの事実上のラスト・アルバム「Abbey Road」の、最後に納められているこの曲。
1曲1曲は、ほぼ完璧に作られたとも思える「Abbey Road」の曲の中で、この曲だけは、ポールがギター1本で弾いている。
「The End」という曲の、さらに後に納められた曲の意味は、何なのだろうか。
やはり、単なる「アンコール」にすぎないのだろうか。
黒澤作品での「左朴全」。
「七人の侍」の農民役に、どうして彼が必要だったのか。
戦闘シーンでも、オロオロするばかりの、彼の役の意味は何なのか。
「あんな人が、本当にいそうだったから」などという、単純な理由ではないだろう。
これらに共通するものとは、何だろうか。
それぞれの作品に、「これ」がないと、きっとどこか物足りない感じがするのではないか。
最初からなかった(いなかった)のなら、おそらく何とも思わないだろう。
でも、「それ」があるからこそ、忘れられない作品になっているような気がする。
「こだわり」や「誇り」の先にあるもの。
皆さんは、どのようにお考えになるだろうか。